木戸孝子/Takako Kido

木戸孝子 インタビュー

東日本大震災から10年、写真に撮りたかったあのときの思い

3.11東日本大震災から10年が経ちました。
あの日何が起こったのか、、、。
振り返ることができない、話すのは難しいと言われる被災地の方々がたくさんいらっしゃいます。
この10年を振り返って、いまの心境は?

震災の日、そしてその後の被災地での日々の事は、10年経っても昨日の事のように、細かくはっきり覚えています。
何十年経っても、昨日の事のように思い出すのでしょうね。思い出すだけで、神経が張り詰めて、目の前の危険にすぐに反応できる準備をするような感覚になるのですが、
言葉にするとそれがうまく伝えられません。
私は津波自体は見ませんでしたが、津波の後の被災地を見続けました。
今も、海の近くにいる時は、まず、どこに逃げるか必ず確認しておかずにはいられません。
運が悪くて、考えられないような災難に遭うわけではないのです。
誰にでも可能性があります。生まれてきた以上、みんないつか死にます。
本当は明日死んでもおかしくないのです。災難は、今日を後悔しないよう精一杯生きることを教えてくれるように思います。

―カメラを手にして、現場へ向かわれました。
当時のご自身は、どのようなお気持でしたか?

自分自身も被災し、旦那さんの実家の両親の無事を確かめに行ったり、水をもらう列に3時間並んだり、
私たちの狭いマンションは避難所のようになっていて、自転車で8人分の食料の調達をし、ガスが出ないので、
ポータブルの電気コンロで食事を作り、写真を撮りに行くことは考えもしませんでした。
しかし、高知新聞社から、ガソリンが調達できず記者が誰も行けないから、と、取材を頼まれ、
車もデジタルカメラも持ってませんよ、と答えると、自転車で行ける場所でいいので行ってみてもらえませんか?との返答。
さらに、ICPの友達のクリストフから電話が入り、ドイツの雑誌の仕事で仙台に行くよ、もう成田から車で向かってるから孝子のうちに泊めてくれ、と頼まれる。
そして、うちに避難していた同じマンションの11階に住む友達からデジタルカメラを貸してもらうことになり、
(11階は水が出ず、エレベーターも動かないし、3歳の女の子がいたので、2階の私たちの部屋に避難していました。)
すべての条件がそろい、これは行かないといけない、という事なのかもしれない、と思ったのです。

地震、津波から4日後に被災地へ入りました。
最初は、何を撮ればいいのか、そこで写真を撮っていいのかどうかさえわかリませんでした。
心の中で祈りながらとにかくシャッターを切りました。でも、いったん撮り始めたら、
このめちゃくちゃで悲惨な場面だけ撮って終わってはいけない、ここに住む写真家として撮り続けよう、
という責任のような物を感じました。

◎木戸さんが残したいもの、撮りたいもの

―今回制作された写真集は、10年の軌跡ともいえる大作です。
海の向こう側にある、大陸へも思いを馳せる印象があります。
編集、セレクションはどのようにして行われましたか?

ニューヨークから帰国して3年目、まだまだ日本での生活にギクシャクしていた頃起きた地震でした。
自分の中に、大好きで大嫌いなニューヨークがいつも存在しています。
好きでたまらないのにもう会えない恋人のように。
心の中にあるものが写真に写り込みます。

セレクションについては、被災地で最初はめちゃくちゃだとしか感じられなかったのが、
時を過ごし歩き回るうちに、だんだん、ガレキだらけの風景の中に何物にも壊せない美しさがあり、
混沌の中に秩序のような物がある事を感じ始めました。その感覚が写真の上に表れていると感じられるイメージを選んでいきました。
普段はプリントで1枚1枚見るので、写真集で2枚ずつ見せていく、という違いでだいぶ苦労して、
ベタ焼きをもう一度全部見て何度も選び直し、時間がかかりました。

―写真集に込められた思いについて教えてください。

タイトル ”The Unseen” は、見えないもの、という意味です。
エネルギー保存の法則によると、エネルギーは壊されることも作られることもありません。
ただ形を変えて存在し続けます。私たち人間もエネルギー体です。
私が被災地で感じた、何物にも壊せない美しさや、混沌の中の秩序のような物が、永遠に生と死を繰り返す、
突然命を奪われた人々の生命のエネルギーなのではないかと思ったのです。体はなくなっても、生命のエネルギーは形を変えて私たちと一緒に生きている。
その見えないエネルギーを感じ、撮りたい、と願いました。それは、ずっと前に亡くなった大好きなじいちゃんとばあちゃんに会いたい、
と思う感覚にとても似ていました。
心の復興は人それぞれです。私の写真集で生命の永遠性を少しでも伝えられたら、
今も悲しみに沈む人たちが前を向いて進み始めるための、ほんとに小さなものかもしれないけど、
きっかけになれるかもしれない。
私は閖上と荒浜によく行くのですが、知らない人が訪れたら、津波で一度破壊された場所だとは信じられないくらいにきれいになっています。
たった10年でもうわからなくなります。ニュースの写真は、次のニュースが出て来たら、消え去っていきます。
コロナの騒ぎで、2011年は東日本大震災から10年目だという事に気がつかない人もたくさんいるでしょう。
ですから、写真集、芸術写真という形で、地震と津波の事を残して行くのは重要な事だと思っています。
この写真集で、未来の命を一人でも多く救えたら、と願います。

―復興が進んだこの10年。時間の経過と共に、消えた光景、新たに現れた光景があると思います。
写真を撮るご自身の眼差しになにか変化を感じていらっしゃいますか?

あそこにガレキの山があった。あそこに車が積まれていた。などと、変わっていく被災地を見ながら、
自分の中で過去と現在の風景が二重露光になるような感覚です。一番大きな違いは、震災から1年半後に初めての息子が生まれ、
今、被災地だった場所に行く時には家族で行く事が多い、という事です。閖上の朝市とか、サイクルスポーツセンターとか、荒浜の公園とか、
スケボーパークとか、家族連れで遊びに行ける施設が色々できています。すぐに避難できるように高い場所があったり、
道路が整備されていたり、津波を想定して作られています。パパに息子と遊んでもらい、私は一人でウロウロ歩いて撮影します。
NYが写真に写り込むように、子供が生まれたことも写真に写り込んで来るのでしょう。

―今後も継続して被災地を撮り続けていかれますか?

ゆっくりしたペースで撮っていくと思います。

 ―木戸さんが惹かれるもの、注目していること?
新たな挑戦があれば教えてください。

被災地でずっと死に向きあっていたのが、子供が生まれると、今度は生の爆発でした。
生と死は表裏一体、どちらも同じ労力が必要でした。
疲れ切っていつの間にか一日が終わるような毎日の中で、セルフポートレートを撮り始めました。
どんなに忙しくても、なんとかして撮らないといけない大切な日々だと感じたからです。
生と死が、写真を真剣に撮り始めた時から続く、私の重要なテーマです。
息子は今8才ですが、まだまだ手がかかります。子育てしながら写真家として作品を作って行く、という事自体が大きな挑戦ですね。